ことばにならないなにか

「ことばにならないなにか」を言葉で近似するそんな試み

数学教育とそれを取り巻く環境について思うこと

最近ゆとり教育が改善される流れが顕著になっているようで、小中高の新しい学習指導要領が改定され、実施されてきています。具体的には、

小学校:平成23年4月~ 中学校:平成24年4月~   
高等学校:平成25年度入学生から(数学及び理科は平成24年度入学生から)
幼稚園の新教育要領:平成21年度~  
特別支援学校の新学習指導要領等:幼稚園、小・中・高等学校に準じる

 

という感じで実施されてきています。この変更のそもそもの動機というのは、OECDの「PISA」という調査の影響があると思います。近年、日本のこの調査における順位が振るわず、世論がゆとり教育のせいだと喚き、今の学習指導要領の改訂に繋がったと言う道筋も、理由の一つとして考えられるでしょう。

そもそもPISAテストの目的とは?


そもそもPISAとはどんなテストかというと、PISAのページ(About PISA - OECD)によると、

義務教育を終えた人々が、彼らの知識を現実社会に適応させたり、社会に参加できるための知識をどの程度持っているかを確かめるテスト

と書いてあります。つまり、このテストで日本の順位が低下しているということは、日本で行われている教育制度では、生徒たちはせっかく学校で受けた勉強を社会に適応させるとこができていない、と自然に解釈できます。

PISAは、上記の知識を確かめるために、4つの項目(科目)において、生徒の学習到達度調査をしています。具体的には、読解力、数学的リテラシー、科学的リテラシー、デジタル読解力(デジタル読解力は2009年調査においてのみ実施)の4科目です。「国語」、「数学」、「理科」、「情報」となっていないところが、PISA調査らしいですよね。社会への適応能力を見るわけですから。

 

ところで、話を学習指導要領に戻すと、文科省はこの学習指導要領の改訂において、「生きる力」というものを一つのテーマとしています。

新しい学習指導要領は、子どもたちの現状をふまえ、「生きる力」をはぐくむという理念のもと、知識や技能の習得とともに思考力・判断力・表現力などの育成を重視しています。

ひねくれた見方をすれば、PISAの順位を上げようとしているように取れます。日本の指導要領の「生きる力」と、PISAの「学んだものを現実世界に適用させる能力」というのは、語感的には似ていますから。

確かに、「生きる力」のような、教育において社会的な実践力を身に付けることはすごく大切なものだと思います、PISAの順位が上がるということは、それだけ生徒の社会適応能力が増大したということですから、帰結主義の僕の立場からすれば、順位上げに躍起になってもよいのでは無いかと思います。

前置きはこれぐらいにして、数学教育に行きましょう。

 

数学を理解する能力の必要性

かの有名なナポレオンは、「数学における習熟と卓越が、最後にはこの国の繁栄を決する。」と言ってたみたいですが、確かに戦いの際には、戦術をいかに組むか、どのように戦うかは、数学的なセンスに非常に関わってきます。そういった意味では、頭のいい論理的な判断、行動ができる(即ち数学が理解できる)兵士を育成するというのは、勝利のためには非常に重要な事柄であったのかもしれません。

 

では、この言葉、現代にも通用するでしょうか。「そんな昔の言葉を今の社会に適合させようとするのはナンセンスだ」と言われるかもしれませんが、僕自身は、この言葉は今の社会にも思わぬ形で適合されるのではないかと思っています。

 

この情報化社会です。我々が今日本から、もしくは世界から求められている能力というものは、「情報を的確に処理する能力、発信する能力、そしてこの情報化社会を作り上げ、より効率的な技術、社会を構成する能力」だと思います。

これから先、様々な情報機器が誕生してくることが予想されます。それと同時に、今以上の様々な「数字」が世の中に溢れかえるでしょう。今でも我々は文化の発展により、日付や時刻といった数値的概念に支配され、企業の状態は株価によって代表され、我々はその企業から報酬を得て、日々の暮らしの生計を数値的に組み立てなくてはいけません。これ以上情報化が進展するとどうなるか。我々は「情報を的確に処理する能力、発信する能力、そしてこの情報化社会を作り上げ、より効率的な技術、社会を構成する能力」なしには生きていくことは不可能です。

ここで注意して欲しいのは、「情報化社会に数学が必要」と言っているわけでは無いということです。情報化社会の世の中に生きる一般人が必ずしも「微分」や「三角関数」が必要と言っているわけではありません。あくまで、数学を理解することができる、もしくは、数学を理解しようとするときに成長する、論理的な「脳」が必要なのです。

 

そういった意味で、私はこの現在においても、ナポレオンの言葉を支持しています。即ち、現代社会においても、またこれからはさらに、「数学的リテラシー」の能力が重要となってくると思うのです。

 

さあここで重要となってくるのは、数学教育です。いかにすれば、その「数学的リテラシー」や「数学活用能力」、数学における「生きる力」を身につける事ができるでしょうか。

 

学習指導要領の改訂で「生きる力」は身につくか?

この学習指導要領の改訂で、生徒の「数学活用能力」は良くなるでしょうか。世間的には、少なくとも現在の知識偏重型の入試制度が変わらないと、意味が無いというのが多数派では無いでしょうか。というのも、多くの生徒は、いい大学に入るため、いい就職先につくため、もしくは親がうるさいから、数学を勉強しているのです。これから自分自身が、社会でより良く生きていくために数学を勉強しようという意識を持った生徒というのはごく少数だからです。

そう考えると、生徒は「数学活用能力」ではなく、「数学上の問題を解く能力」だけが増えていきます。それは残念なことに、答えと解法、そしてテクニックが存在する入試問題を解く能力なのです。「生きる力」とは程遠い。ここで「数学上」というのは、数学界上という意味ではなく、初等数学的な土台の上で意図的に構成された問題であり、社会との密接度が低いということです。

 

もちろん、この「数学上の問題を解く能力」を育むことが、「数学活用能力」の成長に一切関係ないという気はありません。僕が言いたいのは、せっかく数学を学ぶならば、PISAのように、「数学的リテラシー」を身につけるべきではないか。そのためには、現行の 「数学上の問題を解く能力」を重視するのではなく、「数学活用能力を身につける学習」をしたほうが効率的ではないか。という問題提起なのです。

 

と、今までさんざん偉そうに言ってきましたが、 「数学活用能力を身につける学習」というのはどのようなものなのかを提示することは僕にはできません。少なくとも現状ではダメだと感じていますが、それを検証するバックグラウンドもないですし、何よりアイデアが乏しいです。

例えば、インターネット上では、僕のアイデアに似たような数学教育コンテンツを提供しているところもあります。しかし、どれも思っているものとは違います。僕の思う理想的な数学教育は「数学の興味の有無にかかわらず、数学活用能力を育成できる」というものです。要点は2点あって、

(1)「数学の興味があってもなくても教育を受ける」

(2)「数学活用能力を育成できる」

ということです。どちらかのみを満たしているものはあります。

 

日常で活用できるおもしろい数学のトピックスなどを集めたサイトやブログといったものは(2)のみを満たします。わざわざ数学が嫌いな人が「数学」なんて単語で検索する機会があまり無いため、(1)は満たさないように思います。

一方、e-Learningやゲーミフィケーションなどの技術を活用して、幅広い生徒に教育を施している通信塾見たいな取り組みは(1)を満たします。このような取り組みは大規模になってしまう傾向があるため、企業でないと難しいところがあります。ところで企業は何らかの収益が見込める内容でないとダメなので、そのためには、教えている生徒の成績を上げられる取り組みでなければありません。そうなると「生きる力」どころではありません。即ち、現行の数学教育に沿った教育を施さなくてはいけなくなります。(2)は満たされません。

 

(1)と(2)の両立は、ビジネスとして成り立たちません。なぜなら、「数学活用能力」を育てても、生徒の成績が上がるかどうかが保証されないからです。収益が上がりません。その上「数学活用能力を育てる」ための方法論が確立されていない部分もあるため、やはり両立は厳しいのでしょうか。

一番ベストなのが、「生徒がなんらかの形で数学活用能力を身につけ、その結果数学に興味を持ち、現行教育における数学の成績も向上する。」といった超理想的な流れが完成することですが、そうなるのかどうかはわかりません。